性感染症予防とメンタルヘルス〜HIV感染リスク管理のためのPrEP〜

目次
HIV/AIDSの現状
HIV/AIDSは1980年代初めに発見され、しばらくの間「不治の病」とされてきた。1990年代半ばから抗HIV薬の外剤併用治療の効果により、HIV感染者の長期生存が可能となり、今やコントロール可能な慢性疾患と考えられるようになった。一方で、2018年、日本における新規HIV感染者は940件、新規エイズ患者は377件と高い水準が続いている。
このうち同性間による新規感染は、全HIV感染者報告数の約71%(異性間性的接触は約17%)、新規エイズ患者では全エイズ患者報告数の約54%(異性間性的接触は24%)と、いずれも大きな割合を占める*1。HIVの分野では、「男性とセックスする男性」を呼ぶのに「MSM(Men who have sex with men)」という言葉が使用されているが、MSMはHIVの影響を受けやすいと言われている。
万能ではないが、有用な感染予防法”PrEP”(プレップ)

近年、HIVに感染するリスクを低下させる予防策が注目されている。HIVに感染していないが、そのリスクが特に高いと考えられる者に対して抗HIV薬を予防的に投与する曝露前予防内服(pre-exposure prophylaxis ; PrEP)は、HIV新規感染を減らす有効な手段の一つとされている。PrEPの推奨は、2015年9月に世界保健機関(WHO)から出されたHIVに関する治療のガイドラインにも含まれた。
PrEPは、HIV未感染のハイリスク者が抗HIV薬ツルバダを1日1回1錠の内服を継続することで、HIV感染予防に90%以上の効果があると考えられ、米国など世界40か国以上で承認され、新規感染者を減らすための一つの選択肢として導入されている*2。日本においては、ツルバダはHIVの治療薬として適応の承認を受けているが、予防のための使用という適応外使用については、未だ承認に至っていない状況である。一方、海外ではテンビルEMというツルバダのジェネリック(後発薬)がすでに開発されており、日本においても医薬品の個人輸入代行サイトを活用し海外からジェネリックを購入することが可能である。(※PrEPに関する詳細はこちらから→「テンビルEM(ツルバダ配合錠ジェネリック)ってどんな薬?」)
PrEPに関しては、世界各国で様々な課題が指摘されているが、その一つに、PrEPを開始することでコンドームの使用率が減少し、他の性感染症のリスクが増加することの懸念が挙げられている。本来であれば、PrEP中もコンドームを使用した安全な性行動を意識する必要があるが、PrEPを行うことで、コンドームの非着用などのハイリスクな性行動を誘発してしまうのではないかという議論である。では、そのハイリスクな性行動に至る要因にはどのようなものが考えられるのだろうか。
ハイリスクな性行動とメンタルヘルス

PrEPの開始に関わらず、MSMがハイリスクな性行動を選択する要因には、いくつかの要因が考えられているが、そのなかに自己肯定感や精神的健康度の低さ挙げられる。
異性愛者を中心とする社会においては、ゲイ・バイセクシャル男性は、自らの性指向性を自覚させられることとなり、様々な心理的な葛藤が生じると言われている。社会からのスティグマや偏見、それに伴う打ち明けにくさや理解されにくさなど、マイノリティであるがゆえのストレスに晒されやすく、苦悩が生じやすいと考えられるだろう。
国内におけるゲイ・バイセクシャル男性のHIV感染リスク行動とメンタルヘルスに関する調査研究は、1999年〜2000年にかけて実施されている。この研究では、コンドームを常用しない群は、コンドームを常用する群に比べ、精神的健康が低い傾向にあったと報告している*3。そして精神的健康が低い傾向にある場合には、コンドームの使用に対する消極的態度や否定的態度が生じる可能性を指摘している。
つまり、性行為の場面において「コンドームの使用を断られたらどうしよう」「つけてと言ったら嫌われるかもしれない」という感情が生じ、コンドーム非着用という行動が生じやすいと考えられる。そのため、たとえ性感染症予防にコンドームが有効であるとわかっていても、心理的な作用が働き、使用を回避してしまう。こうした行動の背景には、自分自身への自信のなさや自己評価の低さなど、自己肯定感との関連が浮かび上がっている。
自己肯定感を阻むいじめや差別・偏見

自己肯定感とは、自分自身に対する現実的で肯定的な見方のことであり、生まれ育った環境や人生経験が作用しあって形成される。この自己肯定感は、精神的健康度と関連が深いことが研究により明らかになっている。
周囲の人々や社会が個人に対して肯定的な見方で関わっている場合、一般に自己肯定感が高くなると考えられている。一方で、いじめや差別・偏見などによる好ましくないラベルリングや対人経験は、自己肯定感の形成を阻害し、自分自身に対してネガティブな見方を植え付けてしまうリスクをはらむ。
かつて、社会はセクシャルマイノリティに対して好ましくないラベリングを行い、そのラベルを通じて彼らを理解し関わろうとしてきた。精神医学の世界においては、同性愛を異常や逸脱、性的倒錯であると捉え、異性愛へと治すというような治療が行われていた。その後、1980年代後半から1990年代前半にかけて、同性愛は治療の対象であるとみなされなくなり、疾患としての同性愛は医療の範疇ではなくなった。こうした変遷がありつつも、一方で、現代においても逸脱や疾患であるといったイメージが完全には消えていないことも事実であり、過去の医療が与えた影響は大きいと言えるだろう。
セクシャルマイノリティを対象として1999年 実施された調査によれば*4、全体の82%はいじめ被害に遭った経験があり、約60%が「ホモ・おかま・おとこおんな」という性的指向に関連する言葉の暴力を経験しているという。また、セクシャリティに関するいじめ被害の半数は、学齢期によるものであると報告されている。
こうしたネガティブな対人経験は、ネガティブな自己イメージを形成させ、その後の人生に影響を及ぼし続ける可能性がある。社会や周囲の人々が、セクシャルマイノリティの自己肯定感に与える影響は大きいと考えられるだろう。
HIV感染予防とメンタルヘルス

社会がいじめや差別・偏見といった課題に向き合い、自己肯定感を阻害するリスクを減らしていくことが望まれる。そして自己肯定感の低さからくるハイリスクな性行動を回避することができれば、最終的にはHIV感染予防につながると考えられる。
セクシャルマイノリティに関する政府や地方、国会における法制化などの社会的な動きも必要不可欠であるが、われわれ一人一人が多様な性を認め、そして理解するという個々人の意識の涵養も欠かせないことの一つであるだろう。
2011年に実施されたセクシャルマイノリティを対象とした調査では*5、学校教育における同性愛やセクシャリティに関する情報の取り扱いについて、約80%が「一切習っていない」と回答し、約10%が「否定的な情報」と回答している。このような現状を踏まえると、教育制度の中で、教育の一つとして人権に配慮しながらセクシャルマイノリティの存在を扱うことが望まれる。
一方で、すでに自己肯定感に影響を受けざるを得なかった世代については、カウンセラーなどの専門家によるメンタルサポートが役立つのではないかと考えられる。信頼できる専門家に安心して悩みや不安を打ち明け、困難な状況への対処策を考えたり、自分自身に対する見方を見つめたりする機会があることが大切だろう。そうした対話を通じ、ありのままの存在が受けとめられる体験は、自己肯定感を育むことにもつながるのではないだろうかと考える。

参考資料・エビデンス
*1. IASR 40(10), 2019【特集】 HIV/AIDS 2018年
https://www.niid.go.jp/niid/ja/aids-m/aids-iasrtpc/9170-476t.html
*2. 熊本大・松下教授 HIV未感染ハイリスク者への抗HIV薬予防投与「早く導入して」,ミクスOnline
https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=68221
*3. ゲイ ・バイセクシュアル男性のHIV感 染 リスク行動と 精神的健康およびライフイベントに関する研究,日本エイズ学会誌
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aidsr1999/6/3/6_3_165/_pdf/-char/ja
*4. 性的マイノリティのメンタルヘルスの現状と人権課題
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/10jinken/tobira/pdf/02-shiryou3-1.pdf
*5. 日本人の同性間性的接触者における 薬物使用行動と性行動に関する研究 ,全国インターネット調査
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/10jinken/tobira/pdf/02-shiryou3-1.pdf